長い入国審査
成田を出国し、ベトナムのタンソンニャット国際空港に到着した僕と奥さんは入国審査の列に並んでいた。
次が自分の番になったその時、入国管理官が若者から、いかつい顔のおっさんに交代した。おっさんは顔も体型もお笑い芸人のほんこんに似ていた(以下ほんこん)。
僕は初ベトナムに降り立った高揚もあり、ハローと100点の笑顔で航空券を挟んだパスポートを差し出した。
ほんこんはパスポートのページを一枚ずつ、念入りにチェックし始め、ねぶるように最終ページまで辿った。
時間を掛けた確認が終わると、顔写真のページに戻り、閉じないように指で抑えると、ようやくこちらに顔を向けて「どこに泊まるんだ?」と尋ねてきた。
ホテルを聞かれるとは珍しく面倒なヤツに当たったな、とプリントしていたバウチャーを差し出す。
字が読めないのか?と疑うほどバウチャーを眺め続けるほんこんが、次に口を開いたのは「航空券はどこだ?」という質問だった。
乗ってきたLCCの航空券はWEBチェックインのため、自宅で印刷したA4のコピー用紙。
僕は、パスポートに挟んであるでしょ?と笑顔を崩さずそれを指差したが、なんだこれは?と普通の航空券とは形態が違うことを受け入れないほんこん。
この人、ベテランに見えて新人なのか?ちゃんと中身を読んでくれれば、その紙が航空券であることはわかるじゃないか。僕の顔は面倒くささで徐々にひきつった真顔に変わっていく。
A4プリントの航空券を見つめるほんこんが、細い眼光のまま口を開く。
「この紙が航空券であることはわかった、では帰りの航空券を見せろ」
帰りの…?航空券…??
日本への帰国は5日先のためWEBチェックインの範囲ではなく、印刷出来たのは往路の航空券のみ。復路の航空券はまだ引き換えられないのだから、そんなものが今、手元にあるわけがない。
必死に、この便で帰国するのだとバウチャーに記載されている予約済みの復路搭乗便を指差すが、ほんこんは首を立てに振らない。
そもそもおかしい……隣のレーンもその奥のレーンも、すいすいと人が流れている。なぜここだけ異様にチェックが厳しいのか?まさか、このまま入国できないのか?
かつてない長きに渡る審査と質問責めに、僕は既にパニック状態に陥っていた。
硬直している僕に、突然ほんこんは、うしろで入国を待っている女はお前の関係者なのか?と奥さんを指差す。
奥さんは、なぜ僕が入国にここまで時間が掛かっているのか分からず、ポカン顔をしていた。
イエス、あのポカン女は妻だと答えると、ほんこんは奥さんに向かって手を招き、僕の隣に呼び寄せる。
この瞬間、大人が2人で入国審査ゾーンに入っている状態。通常では考えられない。
ほんこんは奥さんからパスポートを受け取り、顔写真を一瞥すると、ページを捲り、即座に判をバーンと押して入国させてしまった。なんだコレ?何も中身を見ていないじゃないか。
混乱の嵐の中、再び1人で取り残された僕に、ヤツは急にニヤニヤとした笑顔を作り、ついに本題を切り出した。
「マニー」
親指と人差指で輪を作り、指を擦り合わせるほんこん。
マニーってお前、Moneyか?金払えって?待って待って。
たしかに僕は貧弱な英語力しか持ち合わせていないので、お互いのコミュニケーションは禄に取れていない。何か罰金的なものか税金的なものか、ここまでの会話の中で実は何らかの入国に必要な支払いを説明されていたのかもしれない。
しかし僕はまだ入国できていないのだからベトナムの金は両替していない。
アイ ハブ ノー ベトナム ドン。
ほんこんは答えた。
「ジャパニーズ エン OK」
OKじゃねーよ。
額も示さず金払えということで、罰金でも税金でもなく、ご要望は賄賂確定の瞬間であった。
精神疲労で背中に変な汗が滲みきっていた僕は、早くこの場から逃げ出したい一心で、あっけなく降伏を選択し、財布を取り出そうとした。
が、まてよ。財布には小銭を除くと1万円札しか入っていないはず。
もし、こいつに1万払ったらベトナム滞在中、5分に1回のペースで後悔を繰り返すだろう。
とはいえ小銭を出して拒否られ、そこから交渉を再開するのも御免だ。
自分は金を持っていないフリをして、僕は先に出ていた奥さんを大声で呼び寄せた。
一番小さい紙幣をくれ、と千円を受け取った後、奥さんをカウンターから遠くに離す。
もはや疲れで沈みきった表情で1枚の札を差し出すと、ほんこんはニヤけた笑顔を絶やさないまま、オーケーとつぶやき、ついにパスポートへ判を押した。
ようやく入国できたが気分は最悪。
金を払ってしまった後悔から2時間ほど落ち込み*1、もう2度と舐められたくない、ベトナム人の前で笑顔は見せるまいと決意した。その時は…*2
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公務員が難癖をつけて金をせびる。
よく聞くアジアあるあるではあったが、自分の身に起こってみたら見事に頭が真っ白になってしまった。
次の賄賂は是非とも拒否していきたい。
俺達の賄賂ロードは始まったばかりだ。